鈴の文箱

日々の雑感(覚書)、本のこと(ネタバレあり)

植物はそこまで知っている

 師走に入り、ベランダに放置していたサボテンが、朝晩の冷え込みで元気をなくしているかと思いきや、昨日の20℃近い気温や紫外線たっぷりのまぶしい日差しで浮かれているのか、蕾を膨らませて開花の気配....。

 「サボテンは音楽を聞かせるといい」というのを聞いたことがある。信じているわけではないが、もしこのサボテンが音楽を聞いているとすれば、それはベランダ側の母の和室からほぼ毎日聞いている伍代夏子の演歌となる。コブシのきいた伍代夏子の声に反応して黄色い花を咲かせるのだろうか。

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 病院近くの大学キャンパス内の書籍部で見つけた一冊。

 『植物はそこまで知っている』ダニエル・チャモヴィッツ 著 (矢野真千子 訳)

植物はそこまで知っている (河出文庫)

 

 視覚、嗅覚、触覚、聴覚、位置間隔、記憶の6つの各章ごとに、科学的に解き明かしてくれる。

 ざっくりいえば、聴覚以外の感覚を植物が持っていることが実験や観察によってかなり確定されている。

 光の方向に花や葉が伸び、まだ固いバナナやキウイはリンゴとともに袋にいれると、リンゴから出るエチレンの臭い(揮散性物質)によってよく熟す。満開の花の香りに誘われて虫が花粉を運ぶのは、植物が臭いを自覚しているから。

 ハエトリグサは触覚で捕まえることができるし、葉は上を向き、根は下に伸びるのは固有感覚(位置間隔)があるためだそうで、人間でいうと三半規管と似ているらしい。巻き付く支柱を探すブドウのつるは、近くにあるフェンスの影に引き付けられ、重力のおかげでフェンスにまきつくことができる。

 記憶は、ユニークな実験結果が紹介されていて、いくつかの推測が確定されつつある。例えば片側の葉に針をつつくと、その側の側芽がつかないのは痛みを記憶しているからではないか、つまり「トラウマ」じゃないかと。

 個人的には、落花生が土に潜るのは、土の中でないと莢も種子もできないことを記憶しているからではないかと、柿の種のピーナッツをポリポリ食べながら、このブログを書いている。

 さて、聴覚については、多くの科学者が様々な実験や観察を試みているが、いまだに不明。著者はこうまとめている 

音波への植物の反応を厳密に研究するつもりなら、理解しておかなければならないことがある。まず、そもそも植物は「聞く」必要があるのかということ。次に植物に何らかの聴覚のしくみがあるとしても、それは動物において進化してきた聴覚とはかなり違っているはずだということ。

 こうした可能性について思案するのは面白いが、数量的なデータを出せない以上、いまのところ、植物は「聞く」という感覚を進化の過程で獲得しなかったと判断すべきだ。

 

 これにより、我が家のサボテンが季節はずれの花をつけたのは、気温と太陽の光を感知したためであり、伍代夏子の歌はなんら影響を与えなかったということである。

 一方、「必要のない感覚は進化の過程で獲得しない」とすれば、ヒトに例えたとき、自身が持つ感覚が必要なくなったとき、それは退化していくということである。

 一番危惧されるのは「記憶」かもしれない。例えば電話番号。黒電話時代は、親せきや親しい友人の電話番号を覚えていたものである。今は記憶機能満載の電話にすっかり依存している生活である。

 ユニークな実験や観察で楽しめた本書は、そんな危機感をもたらせてくれた一冊でもあった。