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鈴の本箱

本のこと、あれこれ(覚書)

食う寝る坐る永平寺修行

 最近、ハマっているテレビ番組の「ぶっちゃけ寺」。僧侶たちが、タレントに突っ込まれながらも、わかりやすくお寺の歴史やお墓や法要について話をされるのを楽しんで見ています。

 母方の実家は曾祖父まで小さいお寺を営んでいましたが、祖父の代になって、私が物心ついたときにはすでに閉めていました。祖父は教師だったので、僧侶の資格を持っていたかは不明です。法要やお墓参りなどは一般の人より関心がないように見えました。

 私が幼稚園に通っていたころに祖母が亡くなりました。葬儀にお坊さんが来ると聞いて、童話全集の「良寛さん」や「一休さん」の挿絵で描かれたような剃髪した姿で凛とした雰囲気を持った人を期待していました。ところが、浄土真宗だったせいか、お坊さんは七三分けのヘアスタイルで登場し、お斎の席ではグデングデンに酔っ払う始末。「お坊さんなのに酔っ払ってへんなの」初めて見るお坊さんの第一印象でした。その影響か、僧侶に対する尊敬の念はこれっぽっちも持てませんでした。

 何年も前ですが、昼休みに立ち寄ったビジネス街の書店に新刊コーナーに平積みしてあった一冊。

 『食う寝る坐る永平寺修行』

食う寝る坐る永平寺修行記 (新潮文庫)

 サラリーマンだった著者が出家し、1年間永平寺で修行した体験が書かれています。厳しい修行の様子は、現在では「暴力」と定義づけられてしまうかもしれませんが、一般社会のそれとは違う次元にあるように思えます。これは読み手によって意見が分かれるところかもしれません。日常生活のすべての行動は決められた作法によって行われることは、自由とは対極の位置にあるので、入門するときには厳しい覚悟が必要です。

 我見を捨て去るーー自分が自分であることを捨て去り、ひたすら自己の無に徹し、長を敬い長に従い、黙々と日々の務めを遂行する。

 しかし、こんなふうに頭の中で考えたところで、そう簡単に大切な自分を捨て去るなどということができるわけがない。ましてわれわれは、すべての存在を自己という立場から考えるという、近代西洋哲学の影響のもとに教育されてきた人間である。

 そこで、その自己に縛られている人間を罵詈打擲し、徹底的に打ち砕くのである。

 「我見」を捨てるために、古参雲水からの厳しい叱咤を受けることで、「無」になっていく。ここまでしなくても、とか、少しぐらい、というのは「甘え」になるんでしょうね。厳しい世界です。

 この本を読んでから、永平寺を訪れたことがあります。門前の宿で一泊し、朝早くお寺の見学に入ったときに、回廊や窓、手すりはピカピカで、回廊ですれ違う雲水さんの姿が清々しく思えたのは、彼らが身につけた所作の美しさともいえます。子供の頃に出会ったあの「酔っ払い坊主」もここで修行すればよかったのにとふと思ってしまいました。

 お線香の香りが漂う季節に読みたくなる一冊です。