岩波書店の目録から選んだ一冊。主人公の秀一に親近感を感じました。
『ぼくがぼくであること』(岩波少年文庫)
1969年の作品。昭和40年代の高度成長期、東大闘争、全学共闘会議の時代でもあります。主人公・秀一の平田家は、兄の良一(大学生)、優一(高校生)、姉のトシミ(中学生)、秀一(小6)、妹のマユミ(小4)、婿入した影の薄い万年係長の父親と教育に厳しい母親の7人家族。物語が進むにつれて、この家族の歪みが浮き彫りになります。(以下、平田家の話を中心にネタバレ)
この母親、今でいう「毒母」というか「アダルト・チルドレン」というか...。兄や姉が優等生なのも、妹が母に逐一、秀一の素行をチクるのも、気難しい母親とうまくやっていこうとする知恵なのでしょう。秀一もまた、不器用ながらも折り合いをつけていくわけですが、ついに耐えられなくなって家出します。
家出によってひき逃げ事件を目撃し、怖くなって逃げた先の農家で、同い年の夏代や夏代のおじいさんの世話になり、秀一は少しずつ変わっていきます。複雑な理由で両親がいない夏代は家事全てをこなしながらも文句ひとついわない少女。そんな彼女に秀一は少しずつ惹かれていくのです。
家出から戻った秀一に母親は冷たく言い放ちます。しかし、もう以前の秀一ではありません。平田家の風向きが変わりはじめるのもこのあたりからです。
「どこの子どもか知らないけど、かってに家へはいってきたりしないでちょうだい!」
ここで泣けばいいのだ。「ごめんなさい。」といってなみだをこぼして母にすがりつけばいいのだ。そうすれば、いままでどおり、秀一はこの平田家の三男になれるのだ。だが秀一はそうしなかった。いままでどおりのことになるために家出したのではない。
「そうですか。どうもすみませんでした。」
そういうと秀一はくるりとまわれ右した。
「秀一!どこへいくの!」
たったいま、「どこの子どもか知らないけど……。」といったくせに、母は秀一をよびとめた。
そして、秀一にとびついて、なぐりつけます。秀一はそれをよけようとして、結果的にアッパー・カットを母親にくわせてしまいました。怒り、わめき、泣き崩れた母親の凄まじい様子が想像できます。
きゅうに秀一はばかばかしくなった。
ーーそうか、おれのことをくずだの、ばかだのって、おっかない顔しておどかしたって、ほんとうはあかんぼうとおんなじなんだ。自分の思うようにならないだけのことで、こんなに泣きわめくんだ。ーー
秀一は家出によって母親を客観視できるようになったのかもしれません。
しかし、そんな秀一を簡単に受け入れた母親ではありません。母親の命令でマユミは夏代宛に投函した秀一の手紙を、回収にきた顔見知りの郵便局員を騙して手に入れます。
夏代から返事がこない秀一は、郵便局にいって「郵便物不着申告」の用紙をもらってくると、それを見た母親がまた怒り狂います。あまりの母親の理不尽さに姉のトシミや次兄の優一も次第に秀一を庇うようになります。そして、ひょんなことからマユミは母の指示で秀一の手紙を盗んだことを白状します。
はげしい怒りのために秀一の全身から血の気がうせていき、秀一は息ができなくなった。全身の関節がゆるんでしまったように、がたがたになり、はきけをもよおした。
吐くほどの怒り。特に身内が原因だと一層、怒りがあふれ出てしまって、秀一の気持ちがよくわかります。
ものさしをあまりにも強く握りしめていた秀一が我に返り、
ーーよかった。もしかすると、おれ、これでおふくろの頭をざっくりやっていたかもしれないな。ーー
最後の最後でとどまれたのは、秀一が母親より大人になったからかもしれません。
ちょうどそのとき、長兄の良一は、ビラを撒いていた同級生が機動隊に暴力を振るわれたのをかばったために逮捕されました。一方、次兄の優一は図書の大量廃棄処分で、教務主任の濡れ衣を着せられそうになり、それは指示によるものだと生徒会で明らかにしますが、教務主任の嘘がバレたことによって目の敵にされて退学させられる状況に陥ります。
優一が秀一に言います。
「なあ秀。おれたちは小学校のころから、正しいことは勇気を持って実行しようとか……、不正を見たら、それをただしてやるのが人間として当然のことだってならってきたけど……。おまえも知ってるように、そういうことは通用しないんだ。おまえは昨日、そういうことはうちじゃ通用しないってことを知らされたろう。おれはな、今日、そいつが学校でも通用しないってことを知らされたよ。な、家庭や学校でさえ通用しないものが、社会で通用すると思うか?おふくろでさえ通じないのが、先生に通じると思うか?」
十代のときに大人の理不尽なところにイライラしていた自分を思い出してしまいました。親や先生の身近な大人たちにそういうことされると無性に腹が立ちましたっけ。でも大人になった今、十代の自分に立派な大人になりましたと言えない自分がいます。なんとも情けないはなしです。
完全にヒステリックになった母親と長兄の良一のやり取りで平田家の問題が浮き彫りになります。
「おかあさんのように人を愛することもしないで、めさきのことだけで結婚し、ただ自分の気分のためにだけ、子供を勉強に追いやり、自分のめさきのちっぽけな安楽のためだけ、子供を大学へやり、一流会社へいれて、なにごともなくぶじに過ごしたいというおとなたちが、この不正でくさりきった社会をつくってしまったんだよ。その責任はおかあさにもある!」
母親の世間体や虚栄心をするどく指摘しています。
「わたしは……わたしは……そんなことをいわれるためにあんたをそだてたんじゃないわ。」
「じゃ、なんのためにぼくを産んで、ぼくを育てたんです。ぼくばかりじゃない、優一やトシミや、秀一たちを、なんのために産んで、なんのためにそだててるんです。こたえてください!ぼくや、優一や秀一たちのためにも、こたえてください!」
母はなにもいわなかった。いえなかったのかもしれない。よろめくように自分のへやへかけこんでしまった。
母親は初めて子供の本音を聞いてショックだったんでしょうね。そして良一もまた母親より大人になっているのです。
そして再び、秀一が夏代の家を訪ねに行っている間、平田家は火事に見舞われてしまいます。出火の原因は電気アイロンのスイッチの切り忘れで、母親の過失でした。そして火事によって、住んでいた土地が担保になっていたことが明らかになります。これも母親が金儲けに失敗してしまったのが原因でした。金さえあれば子供たちにみすてられないと思ってのことだというから、あきれた母親です。
この火事で一家ははだか同然になりますが、子供たちは悲しむどころか、むしろやり直そうと元気を出すのでした。
秀一や長兄の良一が反抗し激しくぶつかりあったからこそ、母親も子供の気持ちを知ることができたわけです。秀一は「家出」したことで、自分を自覚できた気がします。引きこもっていたらずっとふてくされた夏休みを過ごすはめになっていたかもしれません。
大人だの子供だの境界線は案外あいまいなものだと思います。年齢という数字の区分や、社会人と学生で分けたところで、心の成熟度が決して比例するものではないことをこの作品から学びました。