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鈴の本箱

本のこと、あれこれ(覚書)

誰も聞いていない(月刊『図書』第797号より)

 今日はお天気がいいので、部屋の整理をしていたら、岩波書店の月刊誌『図書』7月号が出てきました。

図書 2015年 07月号 [雑誌]

 図書フェアでもらったもので、読みかけだったことを思い出しながら、パラパラめくっていると、高村薫氏の『作家的覚書』のエッセイが掲載されていました。

 タイトルは『誰も聞いていない』。アメリカ議会の上下両院合同会議で日本の首相として初めて演説した安部首相の発言に関連して、言葉の使い方について疑問を呈しています。

先の戦争についての基本姿勢を一言でいえば「反省しているが、謝罪はしない」であった。なんと奇々怪々なことだろうか。言語表現の構造上、これでは反省と謝罪が対立関係もしくは別の範疇に置かれることになり、常識に反する。

一言一句にこだわる一方で、言葉を軽んじる。これが昨今の政治家の際立った特徴であろう。

  鋭い指摘だと思いました。

 こうしてときどきの政治の都合に合わせて恣意的に発せられたり、無視されたり、改変されたりする言葉たちは、もはや真実や確信や信念からもっとも遠いところにあって、ほとんど何も言い当てることもなければ、誰かに耳を傾けられることもないBGMと成り果てていると言おうか。

 佐藤優著『ぼくらの頭脳の鍛え方』でも言っています。

ですから、音の世界、声の世界に騙されないようにする、読書による知的トレーニングは現代でも必要ではないのかと思いました。

  聞いているようで言葉を聞いていない、つまり、受け取り手が言葉をこぼしているということなのかもしれません。

 最近、私が気になる表現に「国民の理解が得られない」があります。そこには、二つの意味があるように思えるのです。

 理解を求める側からすれば、「理解が得られない」のは、「説明しても(頭の回転が悪いから)わかってもらえない。だからこれからも丁寧に何度も何度もわかりやすく説明しないと、(我々のレベルまで)わかってもらないんだよね」というちょっと上から目線的な意味を含んでるように思えます。

 一方、反対側からすれば、「あなたのやりたいことはわかりますよ。でもそれじゃ、違憲になるし、論点のズレた答弁では、とうていそれは受け入れられませんよ」という意味で「理解できない」となるわけです。

 「理解が得られない」というより「受け入れてもらえない」の方がスッキリするんですが、そういう表現はあまり聞きません。「丁寧な説明」も結局は言葉をこねくり回すのが「丁寧」だと思っているのではないか危惧しています。

 最後に高村氏は警鐘を鳴らしています。

 大衆が政治の言葉に聞き入るという習慣を失い、政治家もまたそれらしい言葉を垂れ流すだけのジェスチャーに慣れてしまった現代は、言うなればどこにも本来の政治が存在しない時代である。それはすなわち、いつかどこかでこの国が大地震財政破綻武力衝突といった危機に直面したとき、事態と真に向き合うものの不在を意味する。

 賢い国民でいたいものですね。