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鈴の本箱

本のこと、あれこれ(覚書)

論理思考力をきたえる「読む技術」

 積ん読本の一冊、本日読了。

『論理思考力をきたえる「読む技術」』

論理思考力をきたえる「読む技術」 (日経ビジネス人文庫) 

 今年初めに大学生の甥っ子と食事したときに、たまたまセンター試験日が近かった流れから現代文の長文読解問題の話をしたことが、この本を買うきっかけとなりました。

 書店にある赤本などの長文問題を見たりするとあれだけの量をサクサクこなす今の受験生はすごいと思う反面、ならばなぜ「活字離れ」と言われているのか、私には不思議でした。

「受験に出てくるような長文読解問題は量が多いね。私なら問題解く前に時間切れだわ」とぼやくと、

「あれは、まともに読んだら時間ないよ。コツがあるんだよね。」とあっさり。

「コツ?」

「そそ。」

 そういえば、STAP細胞の小保方さんも「コツ」と言ってましたが、なんだか怪しい気がしなくもありません。

「コツねぇ。そういうのって学校で習うの?」

 自分の学生時代、そんなコツを教えてくれた現代国語(当時)の先生はいたかな?と振り返ってみても思い当たりません。

「んー....学校...ってか..」甥っ子も歯切れが悪い

「はは〜ん、塾ね?」彼の表情を読み取ってそう聞いてみると、

「そ。」即答。

「それって、いわゆるロジカル・リーディングってやつ?」

「あ〜、そう言われればそうかもね」

とふわふわした返事でしたけど、とにかくその「コツ」というのがあることだけはわかりました。その後、書店でこの本を見つけました。私は速読ができないし、論理性をきちんと学んだこともなかったので、よい機会になればと購入しました。

 本を読み進めていくうちに「コツ」は「論理力」であることがわかりました。読書というのは受け身なものと思っていたのですが、著者の立てた筋道を追う読み方をするとなると、それは能動的な読み方になります。

論理は他者意識が強いほど、自然と発生するもの

 「言わなくてもわかるよね」的な発想では、他者意識は希薄なままと著者は指摘します。「言わなくてもわかる」人などこの世の中に何人もいませんから、自分の欲求や不満を伝えるには、他者に説明しなければいけない、しかも他者は自分とは別個の人間ですから、筋道を立てて伝えなければならないということです。

 私の周辺には「論理的=理屈っぽい」という印象を持つ人が少なからずいますが、そんな不安も著者はこう指摘しています。

感情語が氾濫し、言葉が次々と省略されていく。

 例としてギャル語の「アゲアゲ」が出ていましたが、その「アゲアゲ」の言葉の意味を聞いたら誰も答えられなかったと言います。なんとなく使い、お互いになんとなくわかり合ってる。無駄な言葉が省略され、肝心な言葉も省略される。感情語は赤ちゃん言葉みたいなものかもしれません。論理の言葉とは対極にあるわけです。

 言語処理する能力をコンピューターのOSに例えたあたりはわかりやすかったです。OSが古ければ、重たいソフトを動かすことができないし、フリーズしたりもする。そのためOSを強化しなければならない、つまり読書をすることで言語生活の向上を図るわけです。

 最終章では論理力を普段の生活に生かすことが書かれています。対話力、文章力、俯瞰力、日常生活のなかで言語を意識することで論理力が鍛えられていくわけです。

 私の憧れる文章は三島由紀夫のスマートで美しい文章です。作品に論理性があるのは、法学部で学んだ法学の論理性が創作活動において役立っていることを著書『私の小説作法』で述べていました。

手続法は審理がわき道へそれて時間を食うことを戒めており、いつもまっすぐにレールの上を走るように規制されている。私の考える小説もそうであって、したがって、私の小説には、およそわき道へそれた面白さというものがない。

 脇道へそれない分、本筋がブレない、書き手にとってはそれはごまかしがきかないので、厳しさがともなうとおもいます。だからこそ、読み手は本筋に集中できますし、それが読みやすさにつながっているのではないでしょうか。

 さて、私の書いたブログの文章はといえば、これまたロジカルとは程遠い他者意識の低い内容でお恥ずかしい限り。深く反省しました。