鈴の文箱

日々の雑感(覚書)、本のこと(ネタバレあり)

読書について

 光文社古典新訳文庫のショーペンハウアー著『読書について』読了。この作品は岩波と光文社で出版されていますが、新訳というので光文社を選びました。

読書について (光文社古典新訳文庫)

 「自分の頭で考える」、「著述と文体について」、「読書について」と三部構成。

 ここでは「読書について」を覚書として記しておこうと思います。

 出口汪著『論理思考力をきたえる「読む技術」』では、書き手の立てた筋道を追って読むことで論理力を鍛えることが示され、私はそれを能動的だと思いました。

 ところが、ショーペンハウアー氏いわく

読書するとは、自分でものを考えずに、代わりに他人に考えてもらうことだ。他人の心の運びをなぞっているだけだ。

 やはり「読書」は受動的なものなのだろうかと悩んでしまいました。

したがって読書していると、ものを考える活動は大部分、棚上げされる。自分の頭で考える営みをはなれて、読書にうつると、ほっとするのはそのためだ。読書をやめて、他人の思想が私たちの頭から引き揚げていったら、いったい何が残るだろう

 読後、本の内容と自分の考えをすり合わせたり、もしくは本からインスパイアされて新たな発想が生まれることもあるだろうに、なぜ著者は、「読書」について否定的なのだろうか。読んでいるうちに「読書」そのものを否定しているわけではなく、「読み方」を解いているのがわかりました。

たくさん読めば読むほど、読んだ内容が精神にその痕跡をとどめなくなってしまう。精神はたくさんのことを次々と重ね書きされた黒板のようになってしまう。そのため反芻し、じっくり噛み締めることができない。 

これは佐藤優著『読書の技法』でも述べています。

人間の記憶や理解は不思議なメカニズムになっており、知識は一定の熟成期間を置いた後にしか身につかない。

  多読の良し悪しもジャンルによるかもしれません。エンタメなどの娯楽小説は楽しむことが目的ですから、多読でも、読み捨てでもそれはそれでありではないかと思います。

だがこれは非常に多くの学者にあてはまる。かれらは多読のために、愚かになっている。暇さえあれば、すぐ本を手に取り、たえず読書していると、たえず手仕事をするより、もっと精神が麻痺する。

 ショーペンハウアーの言う「多読」を、現在の「情報」に置き換えるとわかりやすいかもしれません。情報が多すぎて、暇さえあれば最新情報ばかり追いかけて、精神が麻痺すると考えれば、納得がいきます。

 例えば、仕事において「暇さえあれば、すぐ本を手に取り…」という人物が、私の思い浮かぶ中で二人います。一人はあるベンチャー企業のマーケティング部で一緒だった同僚、もう一人はシンクタンクの研究員でした。二人の共通点は、いずれもT大卒の秀才君で、彼らの机には参考資料や文献がびっしりならび、足元にもファイルや本が山積み、そして片時もその資料なり文献なりが手放せない人でした。会議でも両手に分厚いファイルを抱えて参加し、何か質問されるとかならず書面を確認してから答えていました。せっかちでたいてい機嫌が悪い上司は「バサバサ、バサバサ、ファイルばっかりめくってるんじゃねえ!頭に入ってないのか?!これぐらいのこと、さっさと答えろ!」と怒号が飛びます。それでも「ええっとですねえ…」と視線は書面に釘付け。また、文献内容を把握している上司は、「うん、それはそこに書かれているよね。で、それについての君の見解はどうかね?」と穏やかに聞かれても、論文に書かれた言葉を器用に言い換えるだけでした。それらはミスをさけるための慎重な姿勢ともいえますが、頭に入っていないと言われても仕方ないように思えます。おそらく、膨大な資料や文献に目を通したのち、咀嚼する時間がなかったのか、それともあれこれ手を出しすぎてまとまらなくなったのか…。どちらにしても、説得力のある言葉を聞くことはめったにありませんでした。

 ショーペンハウアー氏の洞察力も冴えています。

 昔の偉大な人物についてあれこれ論じた本がたくさん出ている。一般読者はこうした本なら読むけれども、偉大な人物自身が書いた著作は読まない。

 これは現代にも通じています。ノーベル賞受賞者の半生を描いた手記などは読まれても、その受賞者が書いた学術書を読む人はいないことと同じことですね。

 一方で、読書についての指南も書かれています。

 「反復は勉学の母である」。重要な本はどれもみな、続けて二度読むべきだ。二度目になると、内容のつながりがいっそうよくわかるし、結末がわかっていれば、出だしをいっそう正しく理解できるからだ。また二度目になると、どの箇所も一度目とはちがうムード、ちがう気分で読むので、あたかも同じ対象をちがう照明のもとで見るように、印象も変わってくるからだ。

  ミステリーやサスペンスは最初は結末がどうなるかワクワクしながら読んでいきますが、結末がわかっていて再読する場合、最初に見落としていた小さなヒントや付箋に気づくことがあります。それによってさらに深く理解できるでしょうし、作品全体の構成も見えてきます。

 読むたびにその作品の印象が変わるのは読書のおもしろさだと言えます。良書は二度でも三度でも読みたくなりますし、年を経て再読しても新鮮に映るものなのかもしれません。

 実はこの本を私は続けて二度読みました。最初に読んだときは、手厳しい形容詞が炸裂していて、「粗野で無知で無能な三文文士」とか「これらの鉄面皮ども」など、本の帯として「怒りのショーペンハウアー」とつけたいほどでした。特に大衆文学の読者には辛辣な言葉が浴びせられ、

大衆文学の読者ほど、あわれな運命をたどる者はいない。つまりおそろしく凡庸な脳みその持ち主がお金目当てに書き散らした最新刊を、常に読んでいなければならないと思い込み、自分をがんじがらめにしている。

 「”凡庸な脳みそ”で悪うございました」とひとりごちていました。もし、それきり読まなければ、私の感想は「頑固じいさんが怒りまくっている作品」で終わってしまったでしょう。つまり過激な表現ばかりに目を奪われて要点を読み落としていたわけです。「他人の心の運びをなぞっているだけだ。」との指摘通り、私はショーペンハウアー氏の怒りだけをなぞっていたんですね。

 巻末の解説を読み、ショーペンハウアー氏が大衆文学に否定的なのは流行作家だった母親との確執が影響しているように思いました。文面に皮肉や怒りがちりばめられているせいか、そちらに気持ちが向きがちですが、読んでいくうちに文学を愛するがゆえの厳しさなのではないかと感じましたし、本を読むこと、そして書くことも含めて、大切なことを解いてくれる一冊だと思いました。