鈴の本箱

本のこと、あれこれ(覚書)

文化講座

 先日、明治大学の公開文化講座『文学と読書の現在 第一線からのまなざし』に参加しました。こういった大学の文化講座は初めてです。

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 講座は二部構成になっていて、第一部「文学とジャーナリズムの間」前文藝春秋社社長の平尾隆弘氏による講演でした。

 この講演内容を私はどれだけ理解できたか怪しいんですが、ここで整理してみようと思います。

 「文藝春秋」は文藝=文学、春秋=ジャーナリズムだそうで、同じ会社の社員でありながら、文学は編集者で、ジャーナリズムは記者と呼称が変わるというのは出版社の特徴ですね。平尾氏が「週刊文春」編集長になってまもなく、95年に地下鉄サリン事件が起き、立花隆氏にこの事件についてプロセスや教義についての依頼をしたとき、社内から反発を受けた話をされました。反対された理由はオームの教義を知ることは「オームを理解する」ことになり、彼らは「批判」の対象であって「理解」すべき対象ではないというものでした。
 「文学は理解で始まり、ジャーナリズムは問題提起から始まる。厳然たる事実に主観が入り、物語性が生まれればそれは文学となり、事実にさらに客観的なコアを深めていくのがジャーナリズムなんです」と話されたとき、ショーペンハウアー著『読書について』の「著述と文体について」が私の頭をよぎりました。「本」は思想を印刷したものであり、その価値は「素材」か「表現形式」で決まる。「素材」の独自性は客体、モノであり、著者がだれであっても素材自体が重要である、一方、「表現形式」の独自性は主体、ヒトであり、この場合、著者がどう考えたのかという把握の形が大切であって、主体が問題となると書かれていました。平尾氏の話を重ねて考えたとき「素材=ジャーナリズム(ノンフィクション)、表現形式=文芸(フィクション)」と解釈できるのではと思いました。
 ルポなどのノンフィクションの作品を読むと、徹底した「素材」の取材をもとに、一貫した客観的視点を持って書き続けるのはとても難しいだろうなといつも思います。ノンフィクション作品の書評やレビューで「偏った見方」とか「表現が大仰だ」とか書かれているのを見ると、文体に現れてしまう自分の精神や思想をどれだけ抑制できるかが課題になると思いました。

 

 第二部「変わりゆく読書風景」では、明大卒業生の作家、中沢けい氏と羽田圭介氏の対談でした。

 二人の学生時代の思い出話からはじまり、図書館について、ネット書店と実店舗、電子書籍と紙書籍、読書する理想の環境といった内容で、それぞれ二人の日常生活のエピソードを混じえながらの話はおもしろかったものの、どれもとりとめがなくなってしまい、最後に妙な間が空くという感じになってしまいました。司会の准教授は緊張されていたのか、対談をうまく仕切られなかったようで、やっと准教授自ら質問した「SNSによって短い言葉、言葉の断片化によって読書離れが進んでいるのではないか」みたいな質問(声が小さくて聞き取れなかったんですが…)も、羽田氏は「twitterなんかのSNSとか、小説を読むとか、両方を棲み分けてる人っているかもしれないっすね...」とポツリ。中沢氏も「そうね、棲み分けてるかもね」で終わってしまいました。こういう対談では、二人の話を上手に掘り下げてくれるようなプロの司会者のほうがよかったかもしれません。

 それでも私なりに収穫のあった講座でした。また機会があればこういった公開講座(とくに無料のは)に参加したいですね。

 

 

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