鈴の本箱

本のこと、あれこれ(覚書)

火花

 遅まきながら、又吉直樹著『火花』(文藝春秋9月号)をやっと読了。

文藝春秋 2015年 09 月号 [雑誌] 

 普段からお笑い番組を見ないので、芸人とかタレントとかの違いもよくわかっていない私にはこの作品は新鮮なテーマでした。「笑わせる」ことだけを追求していく芸人の苦悩や葛藤が徳永によって語られていきます。 

 「笑」の類語を調べてみたら、爆笑、大笑、哄笑、朗笑、苦笑、失笑、憫笑、嘲笑、譏笑、冷笑…といろいろ出てきて、どんな笑いを求めているのか、そんなことを思いながら読んでいきました。 

 ストーリーが進むにつれて、駆け出しの徳永と先輩の神谷の関係が少しずつ変化していきます。徳永の目からみた神谷が描かれているので、神谷の心情が実際はどうなのかは行動や表情、セリフから読みとるしかありません。読み手の私がお笑いに全く疎いということもあって、徳永の言うような、神谷が笑いにおける独自の発想や表現方法だけをひたすら追い求めている芸人かどうか、神谷の破滅的な行動や言動からどうやって面白さを見出しているのかもよくわからなかったです。それに、それぞれ相方がいるのに、その存在が希薄なのも不思議でした。 

 神谷の出会いからラストシーンまで十年以上の月日が流れています。神谷の笑いのためならどんなことでもする姿勢は変わらず、そんな破天荒さに憧れていた二十代の青年だった徳永も、三十代の会社員になって、神谷を説教するような立場になってしまうあたりは少し切なくなりました。 

 神谷はこの作品の象徴的な存在だと思います。彼をみていると「人を笑わせること=自虐的な行為」と思わざる得ませんでした。日常生活のなかで、学校や職場でみんなを「笑わせてくれる」人は、例えば失敗や欠点を面白おかしく誇張したり、あえて悪ぶって毒舌を吐いたりして笑いを誘いますが、自虐的な部分がないとはいえない気がします。 

 一方、「笑う」側はどうでしょう。馬鹿げたことも、誰かの失敗や欠点も、毒舌も面白いから笑っているわけです。でもそこには嘲笑や苦笑がひそんでいないだろうか…。自分の代わりに誰かが毒舌吐いてくれることで堂々と笑えるのかもしれない…。そう考えると、笑う側は案外、残酷なのかもしれません。

  徳永の言葉が印象的です。

でも僕たちは世間を完全に無視することは出来ないんです。世間を無視することは、人に優しくないことなんです。それは、ほとんど面白くないことと同義なんです。

  笑わせたい一心でやったことが、無意識に他の誰かを傷つけているかもしれない。ただ面白いからと純粋に笑ったことが、他の誰かを苦しめているかもしれない。 

 「笑い」にはそんな危険もはらんでいることを気づかせてくれた作品でした。

 

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