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鈴の本箱

本のこと、あれこれ(覚書)

翻訳夜話

新書

 外資系法律事務所に勤めていたころ、親しかった翻訳チームの同僚から、翻訳の苦労話をよく聞かされました。法律文書ですから一字一句の解釈の違いは大きく影響しますし、かといって直訳すると文章としておかしくなるし、それを直すことで、原文と離れていないかと再考を重ねる...こういった作業を経てようやく完成させても、弁護士からダメ出しをくらってしまう。しかもチェックする人の数だけ微妙に見解がわかれてしまうのです。

 これは法律文書のみならず、小説も然り。翻訳者は影の功労者だと思いますが、Amazonの翻訳本のレビューなどを見ると、翻訳について厳しいコメントを見かけることが少なくありません。

  川端康成ノーベル文学賞を受賞したときに、「私の作品というより、翻訳がうまかったから評価されたのではないだろうか」と英訳したサイデンステッカー氏に感謝を述べたことがありました。日英の語学力のみならず、文化や習慣、人物背景の理解力も必要ですし、翻訳者に求められるものはかなり高いように思います。

 東京大学柴田元幸氏の講義に、村上春樹氏を招いて翻訳談義ををまとめた一冊。

『翻訳夜話』

翻訳夜話 (文春新書)

 

 ここには3つのフォーラムが載っていいます。

 フォーラム1は東京大学の柴田氏の翻訳ワークショップ。学生の質疑応答に村上氏や柴田氏が答えます。

 自分が翻訳する上でいちばんの欠点はどこかという質問に、村上氏は語学力だと。これは謙遜だろうと思いましたが、語学力以外の欠点も触れていました。

村上 ......あとは、不注意。そうは見えないかもしれないけど、本当に不注意でね、センテンスをボコッと抜かしちゃったりね。

柴田 数字をよくまちがえられますよね。百年違ってるとか。

村上 お恥ずかしいです。(笑)

  数字をまちがえるのは、不注意なのか語学力なのかわかりませんが、百年違うというのはちょっと驚きでした。

 

 フォーラム2は、バベル翻訳外語学院の生徒たちの前で行われました。

 ここでは、具体的に翻訳についての質問が出ていました。一人称の表記をどのように決めているのかについては、一人称が英語では「I, you, we」ですが、「わたし、わたくし、俺、僕、あなた、おまえ、君...」と数多い日本語の中から、どれが作品にふさわしいか悩みどころと言えます。

 ここで、村上氏の翻訳の動機について少し触れています。

 自分で文章を解体して、どうすればこういう素晴らしい文章をかけるのかということを、僕なりに解明したいという気持ちがあったんだと思います。英語の原文を日本語に置き換える作業を通して、何かそういう秘密のようなものを探り出したかったのかな。

 原文に触れることで、トーンやリズムを探っているのかもしれません。村上氏のリズムへのこだわりが見えてきます。

 僕は思うんだけど、創作の文章にせよ、翻訳の文章にせよ、文章にとっていちばん大事なのは、たぶんリズムなんですよね。 

 

 フォーラム3では、若い翻訳者たちとカーヴァー、オースター作品の翻訳を中心に行われました。

 ここでも一人称について触れています。

村上 変な話だけど、失業者に「僕」って使うと、あまりよくないんですよね。

柴田 どうしてですか?

村上 わかんないけど、失業者に「僕」じゃいけないんです(笑)。

柴田 ……どう答えていいかわからない(笑)。

 私も柴田氏同様、どう理解していいかわかりませんでした(笑)。

 『ねじまき鳥クロニクル』の失業している主人公がスバゲッティを作っているシーンを、文芸評で批判されたそうです。失業者がスバゲッティを作っちゃいけないと。それで村上氏は失業者のイメージを守らなくてはいけない、「僕」という人称は一般的に失業者になじまないと思われるところがあるかもしれない、だからあえて「僕」にしたとか。

 文芸評が主人公の行動を指摘しただけだと思うんですが、村上氏が人称にまで結びつけてしまうあたり繊細な印象を受けました。でもあえて「僕」にしたというのは、私には???でした(笑)。

 また、ここでもリズムについて触れています。

出席者D 村上さんのいうビートというのは、文章のリズムとは違うんですか。声には出さないとしても、頭の中で読んだときの文章のリズム……

村上 それは目で見るリズムなんです。目で追ってるリズム。言葉でしゃべっているときのリズムとスピードと、目で見るときのスピードとは違うんです。

  リズムは村上作品のキーとなっているようです。

 

 柴田氏と村上氏が カーヴァー、オースター作品の翻訳が掲載されていました。比べて見ると、どちらが自分の好みかよくわかります。たとえば、カーヴァーの作品。

Collectors

by Raymond Carver

I was out of work.  But any day I expected to hear form up north.  I lay on the sofa and listened to the rain.  Now and then I'd lift up and look through the curtain for the mailman.

There was no one on the street, nothing.

 村上訳

収集

レイモンド・カーヴァー

 僕は失業していた。でもいつなんどき北のほうから報せが舞い込んでくるかもしれなかった。僕はソファーに横になって雨の音を聞いていた。そしてときどき身を起こしては、郵便配達夫の姿が見えないかとカーテン越しに外を眺めた。

 路上には誰もいなかった、まったく。

 柴田訳

集める人々

レイモンド・カーヴァー

 私は失業していた。でも北の方から今日にも連絡があるはずだった。ソファに寝転がって、雨の音を聞いた。時おり顔を上げて、郵便屋が来ないかとカーテン越しに見てみた。

 通りには誰もいなかった。何もない。 

 タイトルの訳も、冒頭の短い一節だけでも印象が違います。原文のある翻訳でさえ言葉の選び方で雰囲気が異なるのはおもしろいと思います。文体は人のそのものであるといいますが、翻訳でも言えるのではないでしょうか。

 

 さて、私が村上春樹の作品を初めて読んだのが『ノルウェイの森』がベストセラーとして話題になったときでした。その作品を「読んだ」というより、「読もうとがんばった」といった方が正しいかもしれません。安保闘争時代の学生が主人公で、そんな大学生活に虚無感を感じつつ恋愛模様が描かれていて、当時の私はどんよりした印象しか残りませんでした。お洒落な比喩も出てたと思うんですが、何言ってんの?という感じで、読んでるうちに面倒臭くなってしまいました。その後も新刊が出るたび、書店で数ページ立ち読んでみるものの、やっぱり文字ばかり追って頭に入らずという状態が続いています。

 それなら、翻訳者としての村上氏はどうだろうと思ってこの本を読みましたが、やはり、私にとって村上氏はどこか不思議ちゃんな印象があります。

 翻訳と小説やエッセイを書いている村上氏に、ある質問者が書くときは切迫感があって書いているのかという質問がありました。小説を書いているときはすごく集中するので、長く続けると一種の放心状態になるので、休養をとるときに翻訳をすると答えました。翻訳をやると手仕事に感じて、消耗されたものが埋められて気力が出て、また小説にとりかかれるということでした。

村上 ......「雨の日の露天風呂」というシステムがありまして、雨の日に露天風呂に入る。長くお湯に入っていて体が温まってくると、お湯から出るじゃない。出て外で雨に打たれていると、だんだん冷えてくるじゃない。

柴田 温泉が小説で、雨が翻訳ですか。

村上 よくわからないけど、とにかく......(笑)。そういうのって一日ずっとやっていられるんですよね。

柴田 なるほどね。

村上 あるいはチョコレートと塩せんべい(笑)

  温泉と雨、チョコレートと塩せんべい...。

 二つの作業を行うことで互いに消耗したものを埋め合えるバランスがあるということなんでしょうか。

 柴田氏が「温泉が小説、雨が翻訳」と定義したとき、村上氏は「よくわからない」と答えています。そのとき私が村上氏の比喩を理解できなかった理由がなんとなくわかりました。村上氏の比喩は定義しないというか、比喩がなにを指しているのかは考えず、感覚で掴むことではないかと...。村上氏の「そういうの」は、つまり「そういうこと」ってことですね(笑)。”凡庸な脳みそ”の私にはこれが精一杯の理解です。

 やっぱりハルキストになれないと確信した一冊でした。

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