鈴の文箱

日々の雑感(覚書)、本のこと(ネタバレあり)

食えなんだら食うな

 誕生日にはいつも本を買おうと決めている。お盆生まれなので、仏教系の本が目に付く。キラキラ言葉のタイトルが多い中、ストレートなタイトルと赤く編集された頑固そうな僧侶の表紙につい手が伸びてしまった一冊。 

 『食えなんだら食うな』 関 大徹

食えなんだら食うな

 70年代に出版された後、絶版だったのをこのたび復刊。

 遅読の私が1カ月以内に読了できたのは、この僧侶の痛快な言葉がぐさぐさと胸に響いたからだ。

 著者は明治36年生まれ。私の祖父と同世代なので、時代の差を感じる部分があるが、「それがなんだ」と一蹴されるほど、言葉に説得力がある。

 目次だけでもこんな調子(笑)

  1. 食えなんだら食うな
  2. 病なんて死ねば治る
  3. 無報酬ほど大きな儲けはない
  4. ためにする禅なんて嘘だ
  5. ガキは大いに叩いてやれ
  6. 社長は便所掃除をせよ
  7. 自殺するなんて威張るな
  8. 家事嫌いの女など叩き出せ
  9. 若者に未来などあるものか
  10. 犬のように食え
  11. 地震ぐらいで驚くな
  12. 死ねなんだら死ぬな

 目次はどれも僧侶の言葉をつまんだもの。これだけでは誤解を招くかもしれない。

 例えば「家事嫌いの女など叩き出せ」では、男性陣はおお、よくぞ言ってくれたと思うかもしれないが、僧侶は男が女々しくなったと一喝する。

 飲み屋で上司や女房の愚痴をこぼす状況をこう語る。

 上役にいうべき悪口があれば、陰でこそこそいわずに、堂々と胸を張って、本人の前で開陳すればよい。それを、酒の勢いを借り、同じ不満を持っている仲間をつのって、一言、一言をもって同意を求めつつ述べ立てる風景など、「様」になっていない。 

 聞かされるほうも大いに同情するであろうし、同情という心的傾斜は、まま「自分も・・・・・・」という劣情を刺戟する。人間、腹ふくるる業である。どうしても泣き言が鬱憤しているというなら、それこそ「良き半身」に告げるべきであろう。女房なら害はない。 

 そのかわり、いっておかねばならない。女房は、同じ管理社会にいないから、亭主が百万言をついやして上役を罵倒しようとも、半分も三分の一も理解はできないであろう。理解できる女房があれば、それはもう観音さんに近い存在といわねばならない。

  身も蓋もないが、言っていることは納得がいく。

 夫婦共働きに対して、男女平等は「幻想」と指摘する。その理由は、

 男女が対等に働き、対等に収入を得る、というのは、現状ではあくまでも可能性ではないか。夫婦共働きといっても、子供が出来ると、女は育児にかかってしまい、自然、稼ぎのほうは男によりかからざるを得なくなり、対等という可能性を事実としてみせてくれるのは、ごく一部のひとでしかなくなってくる。あえて「幻想」であるというゆえんである。

 現在では、保育園や学童保育の拡充などのサポートが整いつつあるが、すべての人が受けられる状況にはなっていない。「出産」という性差は否めない。

 専業主婦についても容赦ない。

 家事労働という片手間の仕事を誇大に吹っかける。夫たるもの、家事労働の一部を分担して当り前という顔をする。日曜日になると、夫婦そろってお買物に行く、というときこえがいいが、夫は荷物もちであり、妻はさも自分が汗かいて稼ぎ出した金であるように支出方にまわる。

 おお、やっぱり方丈さんは男の気持ちがわかってくれてるなぁと思うものなら、

のぼせてはいけない。それもこれも、世の男がだらしないからである。

  ぴしゃり!。この痛快さがたまらない(笑)女性評論家たちがフェミニズムを片手に「世の男がだらしない」の意味とは対極にある。

 家事を「片手間」というのはなぜか。

片手間といえば、昔の女性は、私の知っている範囲でみんなそうであった。農家の女房は、夫と一緒に野良仕事をし、その前後に家事労働をした。商家のおかみさんは、よほどのご大家でないかぎり、コマネズミのように働いた。

  「出た出た、昔はこうだった、ああだった、ってこういう爺さんいたわ」と思いながら読み進めていくと、

女性にかぎらず、人間「原則」では強くなれないのである。鍛えられて、強くなるのである。体を鍛えるのと同様、みずから汗して働いて、はじめて強くなれるのである。

  ああ、納得。私の父方は封建的というか男尊女卑というか、女性陣は小さいころから家事を仕込まれる。私も小さいころから、母からというより、父から家事を手伝うように促された。小学校に上がると父の靴磨き、洗濯のたたみ、掃除....と増えてくる。母方は毒母系なのでこれ幸いに調子にのって家事を押し付けてきた。当時は不満だらけだったが、父が倒れ、介護やみとりなどの状況になったとき、母は動揺していたが、私はやるべきことが見えていたので、動じることがなかった。

 従妹たちも同じだった。数年前に父の実家の叔父が他界したとき、独身の従妹が一人で葬儀を仕切った。「大変だったでしょう」と言ったら「ううん、全然。セレモニーでやったからずいぶん助かったわ」である。彼女は祖母や母親をはじめ、自宅介護は何度も経験しているし、自宅での葬儀に慣れていたので、互助会のサービスはなんと楽なことかと実感したそうだ。身内の不幸に何もできずに途方にくれる人がいるなか、従妹は強いと言える。

 「みずから汗して働く」は苦労せよというより、経験値をあげろということだと思う。実際に経験し、五感から得るものが強さに変わるのではないだろうか。

 著者の言葉は一見、「そんな殺生なぁ~」「そんな無茶なぁ~」となるが、読み深めていくと「おっしゃる通りでございます」になる。

 私にとって人生の指南書と言える大切な一冊になった。