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鈴の本箱

本のこと、あれこれ(覚書)

芥川賞の謎を解く

人文・教育 新書

 『文藝春秋』の「芥川賞発表と受賞作全文掲載号」には、候補作の選評が載っています。選考委員たちの文学論がその選評を通して垣間見れて、作品より先に読んでしまいます。

 その選評を全て読み込み、賞の裏側を描いた一冊

芥川賞の謎を解く』

芥川賞の謎を解く 全選評完全読破 (文春新書)

 『芥川賞』の歴史をひもときながら、選考にあたる選考委員の苦悩やそれぞれ持っている独自の文学観を通して候補作を絞り込む作業の様子が記されています。候補に上がっても受賞にいたらなかった著名な作家たちにも触れているのも興味をそそられます。

 

 ここでは、特に印象に残ったところを覚書として書いていこうと思います。

 最初の芥川賞となる選考会で候補作の『逆行』が落選した太宰治川端康成の選評に激怒するはなしは有名です。

 選考委員の佐藤春夫や瀧井耕作は候補作が『道化の華』ではなく『逆行』だったことが損をしたという選評は太宰を満足させたようです。しかしながら、この川端の選評には激怒したというのです。当時、川端は選考委員では最年少の36歳、『雪国』の初章にあたる『雪景色の鏡』を発表したばかりの新進気鋭の作家でした。

この二作(「逆行」と「道化の華」)は一見別人の作の如く、そこに才華もみられ、なるほど「道化の華」の方が作者の生活や文学観を一杯に持っているが、私見によれば、作家目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあった。

 「目下の生活に厭な雲」はまさに図星。太宰はこの年の五年前、鎌倉で心中を図ったことが新聞沙汰になっていたし、この選考会の行われた年の春には新聞入社試験に落ちた後の失踪騒ぎで再び新聞沙汰になり、おまけに盲腸炎で鎮痛剤の中毒に苦しみ荒れた生活をしていたという波乱づくめ。図星だったがゆえに太宰は譲れなかったんだろうと著者は推察します。

 そして、太宰は反論文を『文芸通信』に掲載したわけです

「作者目下の生活に厭な雲ありて、云々。」事実、私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思いをした。小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。そうも思った。大悪党だと思った。

 「刺す」これはセンセーショナルです。その後、川端は「大人の対応」で応戦して落ち着いたのも束の間、次に太宰は自分の支持者と言ってくれた佐藤春夫の家に通うようになり、再び芥川賞の期待を抱きます。第二回の選考会が行われる前に懇願の手紙を佐藤に送るあたり、芥川賞へのすさまじい執着心が感じられます。

 選考委員たちが残した選評には、候補作についてのみならず、芥川賞そのものの意味を論じていることもあります。該当作がなかった回では候補作に対する川端康成の厳しい指摘がありました。

 今期の候補作に私が賛成しかねる第一の理由は、新人らしい清新の作風が感じられぬことであった。欠点があり、不安があっても新人の作品には、冒険と反逆とが、私は望ましい。したがって、新人の作品を選ぶことは、審査員にとっても、自身にたいして冒険と反逆とが伴うものと思う。

  川端は回を重ねるごとに選評が厳しくなっていきます。批判は新人のみのならず、既成作家や選考委員にまで及びます。

 芥川賞の作家は、一口に言うと、生きが悪い。酷な言葉かもしれないが、なまぬるいちょっとした作品で芥川賞をとったところで、ほんの一時の、あるいは偶然のまじった、小成に過ぎなかろう。芥川賞はたしかに出文壇の効果はあり過ぎるが、それはマス・コンミュニケイションの大きい騒ぎを、新作家が高等な文学評価と思いちがいさせられたのではないか。

 川端先生のかなり厳しいお言葉ですが、決して的外れではありません。現在でもこの指摘はまんざらあたってなくはないように思えます。

 東大闘争が行われた年、選考委員だった三島由紀夫が強烈な選評を残しています。

 いかに短編であっても、ひらめくものはひらめき、かがやくものはかがやくのが文学である。その精神は、現実を転覆させようという意欲において、言葉の力に何ものかを賭けていなければならない。こんな時代だからこそ、ますますそれが求められる。こんなことではバス一台はおろか、三輪車を転覆させることも覚束ない。

 「言葉の力に何ものかを賭けていなければならない」は重みのある言葉です。「命を賭けろ、死ぬ気で書け」と言われている気がします。

 翌年、三島は純文学についてこう語っています。

 純文学には、作者が何か危険なものを扱っている、ふつうの奴なら怖気をふるって手も出さないような、取り扱いのきわめて危険なものを作者が敢えて扱っている、という感じがなければならない、と思います。

  田中慎弥の『共喰い』はそれに近い気がします。田舎の閉塞感、暴力と性衝動の血縁によるつながり、片手を失った母親が義手で父親を殺害するなど、目を背けたくなるテーマですが、現実にそういう事件はあるわけです。すえた臭いが漂う作品で読後感も不快でしたが、強烈な印象は今も消えません。誰もが避けたい部分に焦点をあてた点では、三島の文学観に近い気がします。

 顰蹙文学と言われて受賞した石原慎太郎村上龍が、選考委員となった芥川賞作品の選評も興味深いものとなっています。二人ともタイプが違う作家ですが、この二人が青山七恵の『ひとり日和』を推したことが注目されました。

 今回、この著書には触れていなかったけれど、石原氏の選評で印象的だったのが楊逸の『時が滲む朝』の選評でした。

 「彼らの人生を左右する政治の不条理さ無慈悲さという根源的な主題についての書きこみが乏しく、単なる風俗小説の域を出ていない。文章はこなれて来てはいても、書き手がただ中国人だということだけでは文学的評価には繋がるまい。」

 前作の『ワンちゃん』では「日本語が稚拙」と一蹴。石原節といった感じです。この本は石原氏の選考委員辞任で締めくくられているので、今回の芥川賞まで及んでいません。

 

 現在、『文芸春秋』9月号に掲載されている選評でおもしろいものがありました。候補作の島本理生『夏の裁断』は、残念ながら村上龍以外の選考委員の指示はまったく得られなかった作品でした。その中で、山田詠美島田雅彦、そして村上龍選評が印象的でした

 山田詠美の選評

 主人公の若い女性作家と<瞳の奥に妙な影を映し>て<女好きする笑みを浮かべ>た男性編集者の出会い、そしてそのやり取り......これが私にとっては、まるで、ホラーかSFか島耕作か......とあっけにとられる代物なのだ。おまえ呼ばわりしたかと思うと、優しい人に小説は書けない筈なのに、あなたが書けるのは何故?というようなことを問いかけてみせる......いい年齢してツンデレなのか、この男......他にも気恥しい台詞が満載。ちりばめられた比喩も大仰。<なけなしの平静がぼろぼろとひび割れた心臓から剥がれていく>とか。冷静になろう!

 島田雅彦の選評

「夏の裁断」は構って系の女性作家と突撃レポーター系の編集者のベタな関係を、ベタに書いた生々しく、痛々しい作品で、島本理生の新境地である。

 どちらもわかりやすい選評です。

 村上龍選評

 この作者は、以前にはなかった重要な何かを獲得しているのかもしれないと思った。言葉にすると陳腐になってしまうが、それは「退廃の萌芽」のようなものだ。魅惑的で危うい退廃を描くのは、現代においてほとんど不可能で、他の作品にはそんなものは微塵もなかった。だが、唯一『夏の裁断』には、その萌芽のようなものがあり、わたしは静かに興奮を味わうことができた。

 村上氏はこの作品から芸術的な魅力を感じ取ったのでしょうか。

 

 選評はその作品のちょっとしたスパイスだと思います。好評でも酷評でも、その効果は読者次第でしょう。村上春樹吉本ばなな、受賞を逃しても第一線で活躍している作家は多くいますし、あのルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』さえ、「ひどくイカレたストーリーは子供たちを魅了するどころか、いっそう混乱させるに過ぎない」と酷評を得ましたが、今や世界中のロングセラーですから。

 

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