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鈴の本箱

本のこと、あれこれ(覚書)

老人と海

外国文学・語学 一般文庫

 ハーレクインはちょっとお休み(笑)。

 思春期に入ったころに読んだ古典作品を再読。当時、「この漁師のようにあきらめない勇気を持ちたい」などと先生受けのする青臭い感想文を書いていたことを思い出してしまいました。

 『老人と海アーネスト・ヘミングウェイ

 老人と海 (光文社古典新訳文庫)

 現在、思秋期に入った私ですが、書店でこの作品のタイトルに懐かしさを感じて手にとりました。パラパラめくっていると、自分が主人公の年齢にずいぶんと近づいていることに気づきました。数年前から日常動作にふと関節や筋肉の負担を感じていて、「歳かな」と自嘲しつつも内心はそう思いたくない気持ちがあります。無意識に避けている衰えがときに強烈なリマインダーとして身体に揺さぶりをかけてくると、焦りや苛立ちを感じたりするのです。私にとって、今この作品を再読するにはいい時期なのかもしれません。 

 八十四日間の不漁。現地では「サラオ」と呼ばれる不運に見舞われた老いた漁師、サンチャゴ。一時は漁師の中で一目置かれた彼も、不運となれば周囲は冷たいわけです。五歳の時から漁を仕込んでいるマノーリンは身の回りの世話にきてくれますが、息子から「サラオ」を避けたい両親は、一緒に漁に出かけることを禁じました。そのため、サンチャゴは一人で漁に出ることになるのです。

 沖に出て、独り言をつぶやきながら獲物を待ち、やがて大きなカジキマグロの感触を得ます。ここから長時間の死闘が始まるのです。ぐっとロープを握りますが、手が攣り、関節がこわばり、さらにロープの摩擦で古傷の上に新たな傷を負ってしまいます。背中にかけて抑えていても、更なる痛みが背中に加わる。実際、この主人公の年齢が数字で記されてはいませんが、こうした描写による痛みはリアルに伝わってきます。これは思春期の頃には感じられなかったものです。

 「あの子がいたらな」

  漁の間、サンチャゴは幾度もつぶやいています。若いマノーリンがいれば、交替で仮眠や食事もできるし、気晴らしに野球の話をすれば頭も冴えます。孤独と不安が交錯し、もっとロープを強く引けたらと思ったでしょう。長年の経験と知恵はあっても、それを活かす体力が十分ではないことを実感しながら続けていく姿が切ないのです。

 長丁場となった戦いで満身創痍の彼は、失いかけたプライドと力を銛にこめて、カジキマグロの横腹に止めを刺します。ついに大物を釣った喜びも束の間、彼の喜びとカジキマグロを鮫たちが容赦なく食いちぎっていくのです。次から次へと現れる鮫たちと戦うたびに武器や道具は壊れ、カジキマグロはますます無惨な姿となるのです。

  ついに負けた。挽回はないと思った。

  負けてしまえば気楽なものだ。こんなに気楽だと思わなかった。さて、何に負けたか。
 「なんでもない」と声に出した。「沖へ出すぎたんだ」

  日常の中で物事がうまくいかないとき、どこか敗北感を感じることがあります。でも何に負けたのかが実はよくわからない。おそらく、他者から言われる「負け」が自分の思う「負け」と一致するとは限らないからだと思います。

 ほとんど鮫に食べられてしまったけれどもカジキマグロはかなりの大物であったし、やっと「サラオ」の不運から解放されたとも言えるでしょう。

 サンチャゴが思いマストを担いで舟から降り、フラフラになって坂を登って小屋に向かう姿、そして小屋に着いたときの様子は、再び息苦しいほどの疲労感、そして安堵感と虚脱感を私に与え、まさに共感共苦です。

 読了後、思春期と思秋期の自分がこんなにも作品の感じ方が違うことに少し驚いています。誰でも歳をとるわけですし、いつも物事がうまくいくわけでもないのに、私は少し気負い過ぎていたように思います。今、再読してよかったと思える作品でした。

 

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