鈴の文箱

日々の雑感(覚書)、本のこと(ネタバレあり)

汚染訴訟

久しぶりのリーガル・サスペンス

ジョン・グリシャム著 『汚染訴訟』(原題:GRAY MOUNTAIN)

汚染訴訟(上) (新潮文庫) 汚染訴訟(下) (新潮文庫)

 リーマン・ショックで揺れているニューヨーク。ビッグ・ロー(大手法律事務所)の一つ、スカリー&パーシングの入社3年目のアソシエイト、サマンサ・コーファーが整理解雇されてしまうところから始まります。

 毎度のことですが、ジョン・グリシャムが描くアソシエイトたちが働く様子はとてもリアルに感じます。いわゆるビッグ・ローの東京オフィスで私もスタッフとして働いていましたが、コーヒーと段ボールに入った大量の書類の匂い、コピー機から発せられる熱、分厚くヘビー級のファイルや山ほどのクリップ、丸められたポストイットのゴミ…読みながらそんなことが思い出されて胃のあたりがムカつきました(笑)。

 裕福な家庭に育ち、大学もロースクールも優等で卒業し、年俸18万ドルとボーナスという収入、わずかな時間に立ち寄るマンハッタンのおしゃれなレストランやバー。挫折とは無縁の生活を送っていたサマンサに解雇通告。机の私物を段ボールに詰めてオフィスを後にする人たちの様子は、実際、当時のリーマン・ショックの報道でもよく見た光景ですが、サマンサもその一人になったのです。

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 再就職は厳しく、ようやく見つけたのがアパラチア山脈のブレイディという小さな町の無料法律相談所。とりあえずの腰掛けのつもりで赴きますが、そこで地元の弁護士ドノヴァン・グレイと出会い、ブレイディの炭鉱をめぐる巨大炭鉱企業の不正に巻き込まれていきます。
 後半、ドノヴァンの身に災難が降りかかり、仇を討つドノヴァンの弟ジェフと共に、石炭会社の不正を暴く決定的証拠を安全な場所に運び出そうとしますが、盗聴やら尾行やらで気の休まる暇もありません。
 最後はサマンサが法廷に立って悪徳炭鉱企業を打ち負かすようなベタな展開を期待したんですが、そうはいかずちょっと残念。でもサマンサが多額の年俸のビッグ・ローでひたすら書類の山と格闘するより、小さな町の無料法律相談所で人の役に立つことにやりがいを感じるようになるあたりは、絶望的な雰囲気が続くストーリーのなかで少しは救われる部分に思えます。

 日本の炭鉱業は平成に入ってから縮小傾向で、現在はほとんど輸入。エネルギー源としても石炭から石油となっていますし、現在ではわずかに数カ所で行われているだけですから、個人的には過去の業種という印象でした。アメリカでも石炭産業は過去のものと思っていたので、トランプ大統領が公約に石炭産業復活を掲げたのは意外でした。経営者であった彼がなぜ今、石炭産業なのかという疑問もあって、そういった観点からもこの作品は興味深かったです。

 さて、巨大炭鉱企業の何が問題なのか。

 採掘方法が二つ。一つは坑内堀りでトンネルを掘って石炭を運び出す方法。大きな労働力が必要であり、危険な作業でもあるので、労働問題や組合闘争など企業にとってはやっかいな問題があります。(日本でも昭和30~40年代に三井三池炭鉱の事故や組合のストライキなどがありましたっけ。)

 そこでそういった人材リスクを回避できるのが露天採掘(山頂除去法)。山頂除去法は露天採掘の拡大版。アパラチア山脈の層は、上から森林、表土、岩盤、そして石炭。石炭層の厚みは1m20cm~6mぐらい。

 石炭会社はまずあらゆる重機を総動員して樹木の伐採を始める。表土も同じように重機で除去されていく。次に現れた岩盤層は発破で吹き飛ばす。切り倒された樹木、表土、岩石はブルドーザーで運び出され、山間の谷間に廃棄されることも珍しくなく、渓谷堆積物と化す。

 実際にアパラチア山脈の山頂採掘は問題視されていて、Smithsonian Channelでその様子を見ることができます。500以上の山が破壊されたというのは驚きです。

youtu.be

 メガサイズの重機が大活躍です。話は逸れますが、動画にチラっとコマツの重機が写っていて、これらの重機の大きさがどのくらいかというと...。

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小松製作所 - 建設機械のコマツより)

 映画のセットかと思うほど(笑)。ヒトと比べるとかなりのメガサイズであることがわかります。最新の重機は無人重機で遠隔操作。現場で働く人たちの負担軽減に役立っているわけです。

 一方、これによって山の生態系が乱れてしまい、悲惨な自然破壊となっていて、下流に住んでいる住民はそのあおりを食うことになります。

 その被害とはどのようなものなのか。連発する発破によって周辺地域の地面がいつも揺れ、家の基礎に亀裂が入る。石炭の粉塵は舞いや石が絶え間なく転げ落ち、井戸水が濁る。そして住民たちの健康被害も起きる。

 ストーリーの中でドノヴァンの案件にはその被害となったケースがいくつかあります。

 ある夫妻の自宅に1トンの大岩が出現して庭のプールに落下。プールサイドにいた夫婦はびしょ濡れ、プールに亀裂が入った件。

 岩石を除去作業した際に大岩を渓谷の先にある埋め立て処分場へむけて押し出したものの、急勾配で勢いがついてしまい1キロ以上も先に転がってしまい、小さなトレーラーハウスを直撃。その後部にいた子供二人は大岩に押しつぶされて即死。

 また、黒肺塵症を患っている炭鉱夫のケースもあります。組合は潰され、黒肺塵症の認定への長い道のり、給付金の未払い、おまけに配置換えで給料減額で生活は困窮という絶望的な案件。

 ドノヴァンは訴訟へと意気込みますが、地元の人たちにとって数少ない雇用を与えてくれる石炭会社に声はなかなか上げられず、陪審員の多くも石炭会社を恐れていたりとなかなか有利な方向へと動きません。フィクションとは思えないリアルさがあります。

 なぜドノヴァンがこんなに石炭会社の訴訟に熱いのか。原題のGray Mountain は、ドノヴァンのグレイ家の所有する山のことで、一家も被害者。(抱えている問題もGrayですが…。)

 このケースで石炭会社の巧妙な手口がわかります。

 石炭層を含むグレイ山はドノヴァンの祖父カーティスが守っていましたが、死後、父のウェブスターが相続したものの、酒に溺れ、盗みを働いて半年の懲役刑をくらうようなろくでなし。グレイ山には最大の石炭層があり、一攫千金をねらって、ヴェイデン石炭会社とリース契約を交わします。

 契約内容は2ドル/石炭1トン。ウェブスターは「地上採炭」という名の露天掘りの許可を出したので、軍隊レベルのブルドーザー集団が作業を始めます。その様子はドノヴァンの伯母マッティの夫チェスターの言葉を借りれば

土地をレイプしはじめたんだよ

 樹木伐採、草まで刈り取りって丸裸。樹木も草もえぐり取った表土も谷底へ。その後、盛大な発破作業が行われます。

 グレイ家の家屋はある渓谷の中にあって、石造りの家。発破作業がはじまって石材にひびが入り始め、父ウェブスターは石炭会社にクレームするが時間の無駄。大量の粉塵が出て霧のように覆い尽くし、発破のたびに家が揺れ、傾き、ついにはドアも閉まらなくなる。

 一方、現場は炭鉱層が現れて石炭を運び出されたものの、約束の小切手が支払われたのは 最初の1、2回。しかも金額は期待したよりはるかに少額。怒った父親は弁護士をたてて交渉にあたるもうまくいかない。谷底に捨てられた樹木や廃土で上流の小川は涸れ、地下水は汚染され、空気は粉塵だらけ。石炭価格も上昇したっぷり採炭したにもかかわらず、父親の手に渡された3万ドルの小切手が最後となります。それを不服として40万ドルの請求の訴訟を起こすのですが、石炭の価格が暴落し、ヴェイデン社は破産申立をして立ち去ってしまうのです。

 そしてある大雨の日。大小の川が埋まってしまったために大量の雨水が斜面のあちこちに流れ出し、土砂崩れが起きてグレイ家を飲み込みます。幸いけが人はなかったものの、削り取られた山と破壊された家が残されただけとなった状況に絶望したドノヴァンの母親は自死、父カーティスは行方不明となります。

 石炭会社が採掘後、支払いや原状回復の義務から逃げるために破産宣告し、その会社は事実上存在しなくなるので、カーティスのように請求訴訟を起こしても相手がいないわけです。破産した会社は新会社と現れ同じことを繰り返す。これは石炭地帯ではよく使われるテクニックとか。かなりブラックなビジネスモデルです。採炭作業に直接かかる費用以外は完全に度外視です。
 伐採した木材を谷底に捨てる:木材として再利用するのは搬出コスト、製材コストがかかる。
 地元住民の健康被害:大手保険会社と手を組んで、低所得者の多くがアル中や喫煙などの健康リスクを抱えていることを理由に補償回避を図る、または相場よりも安い賠償金で納得させる。
 環境問題:人口が少ない地域であり、生活レベルが低い住民はそういった問題より日々の生活の問題で手一杯。法整備も石炭会社に多額の支援を受けている議員たちによって阻まれる。

 アメリカの石炭関連の法整備について、WEDGE Infinityに掲載された山本隆三常葉大学経営学部教授) 氏の記事によれば、

wedge.ismedia.jp

オバマ政権時に内務省は石炭の剝土(採掘のために除去した土砂)を湧き水、小川などに廃棄できない改正を行ったのですが、政権交代後、議会評価法による不承認が行われることになり、湧き水への剝土廃棄を禁じた法改正は、議会評価法により無効となり、これを承認する大統領の署名には、炭鉱労働者、産炭州の両党議員が立ち会ったと書かれていました。

 炭鉱労働者たちは雇用拡大を期待しているようですが、無人重機をはじめハイテク機器によって雇用は思ったより伸びない気がしますけどね。作品同様、喜ぶのは石炭会社だけでしょう。

 ストーリーはちょっと物足りない感はありましたが、アメリカの石炭事情を知るきっかけになった一冊でした。