お盆生まれの宿命といいましょうか、今年も誕生日のロウソクの代わりに仏壇のロウソクを灯す日がやってきました。お線香の香りに包まれて誕生日を祝ってもらっていたわけですが、年を重ねるにつれ、悟りを開きたくなるのか、今年は禅語の本を読みました。
『ほっとする禅語70』渡會正純 監修、石飛博光 書
かなり前に訪れたことのある永平寺。そこで修行している雲水さんたちの生活を記した『食う寝る坐る 永平寺修行記』を読んだら禅語が気になるようになりました。
ならば、道元禅師の書物を読むべく『正方眼蔵』や『正法眼蔵随聞記』に挑戦しましたが、凡庸な脳みその私にはかなりハードルが高すぎて、爆睡本となってしまいました。
最近は禅ブームなのか、わかりやすい禅語なる書物も増えてきて、その中の一冊がこの本です。
各禅語のわかりやすい説明と達筆な書が見開きでそれぞれ紹介されています。私はあまり書に関心がないので、twitterの禅語botでもよかったかなとちょっと思ったりもしましたが...(笑)。パラパラめくって読むにはちょうどいいです。
とくに印象的だったのは「阿吽」について。
阿は万物の根源で、吽は一切が帰着する智徳。最初と最後の音です。あいうえおの「あ」と「ん」と一緒です。始まって終わる、ものごとの全てがこの二音で表されています。
「あうんの呼吸」は息が合っていることぐらいにしか理解していなかったんですが、根源と帰着の呼吸と思うと、なんだか深い気がします。
80年代のドキュメンタリー番組で、曹洞宗第77世丹羽廉芳貫主が説いた「心身一如」に、ひどく感銘を受けたのを覚えています。
心全体を体というのが、これが仏法のお釈迦様の教えの根本でございます。一言でいえば「心身一如」と申しますがね。
二つに分けない。二つに見るのは外道で他の教えになります。
ですから、体のまっすぐなときには心はまっすぐということでございます。
宗門はその根本の「心身一如」をもとにして今日まで2500年ずっと参っておりますから、体を心というのでございます。
世間よりちと深いというかね。
「ちと」どころか、私には「かなり」深いです。背中を丸めてPCやスマホに向かう私にいつも喝を入れてくださる言葉です。
合掌。