鈴の文箱

日々の雑感(覚書)、本のこと(ネタバレあり)

知性とは何か

本日、なんとか読了。

『知性とは何か』

知性とは何か(祥伝社新書)

 反知性主義に流されないための具体的な提言が幅広い分野にわたっている一冊です。おそらく、本書の半分も私の頭で理解できていないかもしれませんが、覚書として書き綴っていこうと思います。

 著者は現在の日本に蔓延している「反知性主義」が、現在の安倍政権下で顕著に表れていると指摘しています。

 私は政治に関してノンポリでしたが、今回だけは、相次ぐ憲法学者による違憲の指摘、国民の理解を得られぬまま安保法が衆院に通過したことに危機感を覚えました。そしてそれはまさに著者が定義する「反知性主義」そのものでした。

 反知性主義を大雑把に定義するならば、「実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように世界を理解する態度」である。

  新しい知識や論理性、他者との関係性などを等身大に見つめる努力をしながら世界を理解していくという作業を拒み、自分に都合がよい物語の殻に籠もるところに反知性主義者の特徴がある。合理的、客観的、実証的な討論を反知性主義者は拒否する。 

  政治のみならず、言葉についても言及し、藤原智美氏の『ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ』を取り上げ、ネットの普及とともに書き言葉の世界が構造的に弱体化していることが、反知性主義が蔓延する土壌になっていると指摘しています。

「長々と書いて説明しなければならないのは、そもそもダメなアイデア」とネット上でみなされるのは、そこで用いられている言葉が、基本的に話言葉だからである。ネットは単なるツール(道具)ではない。ネットという道具自体に、知の形態を変容させる力がある。

 確かにネット上の文章は短文がメインですし、私も長い文は好ましくないと思うようになっていました。

小説や哲学書、思想書が読まれなくなっているのは、これらのテキストが読者に書き言葉に対峙して、自律的に思考することを要請するからである。これに対して、SNSが普及した現代において、瞬時の判断を求めることが流行になりつつある。そのことが、反知性主義に対する社会の耐性を弱くしているのだ。

  余談ですが、皮肉にも百田尚樹『夢を売る男』で、編集長の牛河原がこんなことを言っています。

日本人は世界で一番自己表現したい民族だ。

他人の作品は読みたいとは思わないが、自分の作品は読んでもらいたくて仕方がない。 

  反知性主義の定義を用いれば、「他人の作品を読まない→客観性や実証性の無視」、「自分の作品は読んでもらいたい→自分が欲するように世界を理解する」になるのではないでしょうか。耳が痛いです。

 反知性主義のうねりに飲み込まれないための処方として、3つのポイントを挙げています。

第一は、自らが置かれた社会的状況を、できる限り客観的にとらえ、それを言語化することだ。自分の考えていることをノート、PC、スマートフォンなどに記録する習慣を身につけよう。

第二は、他人の気持ちになって考える訓練をすることである。

第三は、LINE(ライン)などのSNSを用いた「話し言葉」的な思考ではなく、頭のなかで自分の考えた事柄を吟味してから発信する「書き言葉」的思考を身につけることだ。

 第二の他人の気持ちになって考える訓練は、人間関係のみならず、外交や宗教の問題についても触れていました。民族や宗教の意識は個々によって違うわけですし、人によっては宗教は生活そのものであったりもするわけです。歴史や文化的な背景、そして絶えず軸足を自分の方ばかりに向けず、相手側にもおいて物事を考えること、それが客観性にもつながることになるんだと思います。

 教科書に書いている内容を覚え、それを1時間半から二時間の限られた時間で再現することができる偏差値秀才は、学力は高いかもしれない。しかし、それが人生や仕事に役立つ知性と直結するわけではない。知性は、記憶力や再現力だけでなく、人間の生全体を貫く営みだからである。

 本書の「知性」の深い意義に自分の思慮浅さを痛感した一冊です。