鈴の文箱

日々の雑感(覚書)、本のこと(ネタバレあり)

自分の行いは自分にかえる

 あけましておめでとうございます。

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 一般に黄金律と呼ばれる聖書の一節

なにごとでも人びとからしてもらいたいことは,すべてそのとおり人びとにもしてあげなさい (マタイ7:12、ルカ6:31)

小型聖書 NI44 (新共同訳)

 学生時代、『キリスト教概論』の授業でこの一節を知り、「あなたがたの心からの思いやりはきっと相手にとどくのです....」的な講義だった記憶がある。夢見る乙女の脳内ではエンジェルが飛び回り、「人に親切にすれば、自分も親切にされるだろう」と単純に解釈してしまった。

 社会人になってそれを心掛けたが、親切にしても、利用される、つけこまれる、またはウザがられるといった苦い経験値だけが上がっていく。相手が悪かったのか、それとも自分がどこかで間違えたのか、悶々と悩んだ時期がある。やがて自分ではまだ理解できないとわかってから、聖書とは距離を置くようになってしまった。

 

 一方、「因果応報」はわかりやすい。

人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるということ。▽もと仏教語。行為の善悪に応じて、その報いがあること。現在では悪いほうに用いられることが多い。「因」は因縁の意で、原因のこと。「果」は果報の意で、原因によって生じた結果や報いのこと。(三省堂、新明解四字熟語辞典)

畜生・餓鬼・地獄の中世仏教史: 因果応報と悪道 (歴史文化ライブラリー)

 聖書では「人に対する行い」だが、因果応報の意味する「行い」は対象が人と限っていない。その「報い」はその対象から返されるとは限っていない。

 浜辺のゴミを拾ったからといって、翌年に大量のアサリがとれるわけでもないし、突然、大波に飲まれてしまうかもしれない。「果報は寝て待て」というように、その報いはいつ、どこで得られるかは現世かもしれないし来世かもしれない。ただ、自分を律することが中心になっていると思う。

 良いことしたらご利益ありますよ、悪いことしたら罰が当たりますよ。ということで理解しやすい。

 自分のしたことは自分にかえるものだなと実感したの年賀状である。甥から「結婚しました」年賀状を元日早々にもらえると期待していた母だったが、今日も届いていない。

 「結婚したのに年賀状すら送らないなんて、情けない孫だわ。私はちゃんと出したのに!」とお嘆きの母だが、私は内心(あなたもかつてはそうでしたよん)と毒づいた。

 私の子供の頃、年賀状を書かせることを厳しく言い続けたのは父であり、母は一度も年賀状を書きなさいと言ったことがない。書くことが苦手な兄は父に言われて仕方なく書いていたが、母はいつも「出さなくてもいいわよ」とか「無理に書くことないわよ」と言っていた。当然、母もその年の気分で出したり出さなかったりで、そのうち父は二人には何も言わなくなった。

 毎年、父の年賀状の干支のハンコ押しを頼まれていた私は、いやおうなく年賀状と向き合う。そのたびに「いいか、年賀状ぐらい書けないと社会に出てから困るんだぞ。だから、今から練習しといた方がいいんだぞ」と説教を受けた。

 兄の結婚後は、兄嫁まかせ。メルヘン調のデザインでとても兄が選んだとは思えない。その兄の息子、甥二人が子供の頃、「叔母さんはね、あなたたちの書いた年賀状が欲しいな」と言ったら「お母さんが出すから僕たちは出さなくていいって言われたから」と答えた。だから、彼らは年賀状を書く習慣がない。SNSすら「あけおめ」を送ってくれたことがない。年賀状の意味づけを子供に教えなかった報いが三代に継がれていて思わず笑えた。