鈴の文箱

日々の雑感(覚書)、本のこと(ネタバレあり)

受験必要論

 購入したのは数か月前で、隙間時間に少しずつ読んで、今日、やっと読了。

 『受験必要論』(林修 著)

 病院帰りの丸善で衝動買いしたもので、このインパクトの強い表紙に「カバーをおかけしますか?」の問いに「ぜひぜひ!」と言って、店員を笑わせた一冊である。

 あの「林修」節がいたるところに散らばっていて、ドヤっぽいニュアンスがなくはないが、書いてあることは至極まっとうであり、納得のいく内容だった。

 冒頭、「受験とは特権的なことである」では、家庭の経済事情で受験ができない人がいるなかで、受験できることが特権的であると言っている。

 私は転職や留学の経験から「よい教育は買うもの」と思うようになり、折々にそれを実感する。良書と呼ばれるものは得てして高額なのもうなずける。

 林氏の東大学生時代の話で、

 僕が東大の学生時代、その中でもとびっきり優秀なある教授のゼミを受講したことがありました。必要な本をいろいろと指示され、その合計額はなんと10万円以上!それで、ある学生が「高すぎて買えない」といったんです。そうしたら教授は即座に『ならば、このゼミをやめてください。勉強は贅沢ですから』と静かに言い放ったんです。僕は「そのとおりだな。勉強は贅沢なんだよな」と心底感心しました。今考えると、教授は勉強に本気で取り組む覚悟を求めていたように思うんです。自分自身がそうやって勉強してきたということもあるでしょうね。

 「勉強できることはありがたいと思え」という昔の言い回しを思い出すが、親に無理やり受験させられるという学生を対象にしていない。主体的に受験に臨むことができる学生に向けている言葉である。

 「特権的」と聞いて、佐藤優氏の講演で「本が買えるのはそれだけで特権的だと思っていい」という言葉を思い出した。「本なんて買わなくても図書館で借りればいい。確かにそうかもしれない。しかし、手元にいつも本がある。古本でもまったく構わない。要はいつも手元にあって、好きなときに好きな期間、何度も読める。借りた本ではこの環境が作り出せない。」と言われて納得したものだった。

 受験の目的は希望する学校に入ることだが、その目標設定には卒業後の将来像が控えている。それが見えているか、まだぼんやりしたままなのか、そこでも取り組みが異なってくる。生活習慣も影響するわけで、集中できる環境づくり、また自分の集中力のピークなども自覚できる。こういうことは合否に限らず、人生経験として役立つ部分でもある。

 また、林氏は浪人を勧めていない。社会に出るのが1年遅れる、働き盛りの1年やキャリア最後の重要な1年を削ることになるからという。

 私の父も浪人は認めなかった。というのも、父は20歳で初受験したからだ。父は兄弟姉妹が多く、経済的にゆとりのない家庭だった。地元の進学校を卒業後、地元の会社で2年働きながら受験勉強をしてお金をためた。その後上京し、東大受験したが不合格、早稲田大学の夜学に通った。国立のつもりでの予算だったので、私学となれば稼がなければならなかったので昼は車工場でタイヤ洗い、夜は学校という生活だった。父は「もうちょっと若かったら、東大にもう一度挑戦したかったなあ。20歳過ぎてたから、あきらめたけどな」と打ち明けた。受験の段階ですでに2年遅れをとっていた父はこれ以上出遅れるわけにはいかないと思ったのだろう。林氏の話もうなずける。

 林氏自身も東大の出身だが、東大内では学力差が大きいという。偏差値的に一番上に位置している東大だけは、偏差値の上限がないからどこまで突き抜けているかわからない。

 上にフタがないから、トップの能力はものすごい。その結果、ギリギリ入学組との差はとてつもなく大きいんです。にもかかわらず、たまたま滑り込んだだけで『俺はすごいだろう』という態度を見せられると、ちょっと違うんだけどなあ、と思ってしまいます。

 最後に勤めた外資系弁護士事務所で親しくさせていただいた弁護士の一人がいる。彼は東大の法学部ではなく、文学部の仏文の出身だった。卒業後、一般企業に就職したが「東大だから」ということで法務部に配属。仕事を通じて法律の知識が必要だと感じた彼は、司法試験を受けて見事に合格。社会人経験を買われて入所した人である。他の弁護士よりも気取りのない気さくな人柄で、クライアントからも評判が良かった。今は独立して自身の事務所を構えている。

 勤めていたころ、ブレークルームで、
「東大文学部の学生さんは、年間どれくらい本を読むんですか?」と聞いてみた。
「300ぐらいは軽く読んでるんじゃないかなぁ」
「300?! ほぼ1日1冊?」
「それでも65日余るでしょ?」
 感覚の違いに私が言葉を失っていると、
「実は学生時代の思い出があってね....」と話し始めた。

 彼は東北の進学校出身で、当然成績も上位だった。
「こう見えても僕は地元では神童と呼ばれてたんだよ」と冗談交じりに語った。
「ところが、東大入学してまもないころかなぁ。文学講義の初日。講義が始まる前に僕の周りで雑談をしている学生がいて、そこに交わろうと近づいたら、僕の読んだことのない本について語り合ってたんだ。その雑談についていけないのがくやしくて、帰りにその本を買って、徹夜で読んで、翌日、何食わぬ顔して話に加わったんだ。それ以来、教授や友人が読んでいる本は僕も読もうと決めたもんだから、本ばかり買って仕送りが足りなくなったな」

 神童と呼ばれても奢れることなく、自分より上の人たちから刺激を受けてさらに高みを目指す一例といえる。だから会社勤めもそれに甘んじることなく、さらなる高みを目指して司法試験を受けたというわけである。

 この本を読み進めていくと、私が仕事で出会った東大卒の人たちの考え方や仕事の姿勢を思い出す。私はそういった人たちからよい刺激を受けてきたと思う。もちろん、傲慢な人もいたが、不思議といつのまにか淘汰されていくことが多かった。

 後半に灘校の英語教師である木村氏と林氏の対談が載っている。今の学校について語っている。自分の学生時代に比べると、学校が教育産業に圧されている気がする。学校で、能力が高く意欲のある生徒たちが先に進めずに足踏み状態であるのを問題視している。

 こういう内容を誤った見方をすると「できる子主義」と捉えがちだが、そうではない。私は能力・学力別クラス分けが差別だとも思わない。実際、予備校、塾、英語学校もそういったクラス分けをしている。だから、着実に力がつき、実績も残る。それが学校となるとそうならない。できる子もできない子もどちらも苦しくなるのではないだろうか。

 あとがきで、林氏がこう書いてある。

受験勉強は社会に出たら全く役に立たない、という意見もしばしば聞きます。(略)しかし、社会に出て役立つような勉強の仕方をしなかったというべきではなかろうか、と思えてならないのです。

 「受験」の物差しで測られた大学受験の合否。社会に出るとその物差しが変わる。社会に出て役立つ勉強方法がそこで試されるのだろう。

 林氏の熱い文体に圧されながらも、生涯における勉強の意義を確認した一冊だった。