シルバーウィークと名付けられた連休が始まりましたが、敬老の日にちなんで、母が好きな童謡を収めた復刻版CDをプレゼントしました。
『復刻 懐かしの童謡歌手たち 川田正子・孝子』
昭和初期の香りプンプンのモノラルなサウンドで、古いレコードを回したときの「プチッ...プチッ...」の音がレトロ感を漂わせています。当時のイントロが母の脳細胞を刺激したのか、次から次へと歌いだし、その記憶力を昨今の日常生活にもぜひ活用してほしいと心秘かに思うのでした。歌詞カードの文字が小さいので、拡大コピーしてあげようと思っていたのですが、一曲の歌詞の文字数はさほど多くないので書き写すことにしました。
その中の一曲、西条八十作詞の「カナリア」。『歌を忘れたカナリアは〜♪』で有名ですが、実はその部分だけしか知りませんでした。書き写していくうちに、意外な内容に思わずぶっとんでしまいました。
歌を忘れたカナリアは 後ろの山に棄てましょか
いえいえ それはかわいそう
「歌えないカナリアなんて棄てちゃお」という子供に、「いけませんよ、かわいそうでしょ」と諭していきます。
そしてさらに、
歌を忘れたカナリアは 背戸の小藪に埋けましょか
生き埋め?!
歌を忘れたカナリアは 柳の鞭でぶちましょか
鞭打ち?!
と、どんどんエスカレートしていくんですが、「それはなりませんよ」、「いけませんよ」と繰り返し、諭していきます。
最後は
月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す
と優美に締めくくられています。
「この『カナリア』って、埋めちゃうとか、鞭で打つとか、童謡にしては残酷な歌なのね」書き写したノートを母に渡しながら言うと、母は改めて歌詞を目で追いながら「あら、そう言われてみればそうだわね。でも曲がやさしい感じだからあまり詩の内容を気にして歌ったことないわ」と答えました。確かに、歌はメロディーによって詞の印象を脚色してしまうかもしれません。
『赤い鳥』などに掲載されたこの時代の童謡は、子供の無邪気さや無知からくる幼い残酷さをストレートに表現している作品が多く、今なら子供には読ませないかもしれません。でも、こうした童謡や童話によって子供は少しずつ自分の中にある冷酷さや残酷さを自覚していくのではないでしょうか。
これを機会に西条八十の他の作品も読んでみようかと思っています。
余談ですが、自分の残酷さを自覚したのは小学1年生のときでした。理科の教科書で見た蝶々がストロー(口吻)で花蜜を吸う写真を見て、リアルにそれが見たくて、昼休みにアゲハ蝶々を捕まえて、細い枝を割いて、蝶々の丸まっているストロー部分をそっと伸ばしました。「本当に丸まったストローだよぉ。これで、お花の蜜を吸うのね。見て見て、ほらぁ。」と嬉しくて仲良しのK美ちゃんに見せたら、「ヤ〜ダ〜」と走って逃げてしまいました。
その日の帰りのホームルーム。ふだんは発言しないK美ちゃんが手を上げて、「水鈴ちゃんは、蝶々の口のストローを引っ張りました。そういうことはいけないと思います。」と冷ややかに発言しました。「ええぇ〜」とクラス中から非難の視線を受け、放課後、先生に呼ばれました。私は「捕まえた蝶々は死んでないし、ストロー部分を確認したあと、サルビアの花壇に放しました」と自供しました。
当時、担任だった先生は年配のベテラン教師で、リケジョでもあり、自宅には蝶々の標本がズラリ並んでいたほど。ですから、私が蝶々に関心を持ったことについては非難されることはありませんでした。先生は「蝶々に興味を持つことはとても良いことだけど、強引にストローを引っ張ると、ストローが壊れて蝶々は蜜を吸えなくなることもあるのよ」と教えてくれました。「そうか、蝶々に悪いことしちゃったんだ」と蝶々への残虐行為を深く反省。そして「仲良しのお友だちを怖がらせてはいけません」とも言われましたが、チクッたK美ちゃんの友情をこれからも信じてよいものか、真剣に悩みながら帰りました。