鈴の文箱

日々の雑感(覚書)、本のこと(ネタバレあり)

持病との向き合い方

 今朝の朝食後の服用で、発熱外来でもらった5日分の処方薬を飲み終えた。4日目ぐらいからカラ咳もだいぶ減って、夜中に目覚めることなく眠れるようなった。そして何よりもありがたいのが息切れをしなくなったことだ。

 エレベーターのない4階までの階段が、まるで、酸素ボンベなしでエベレストの頂上を目指すのような空気の薄さを感じながら階段を昇ってきた感じだ。月曜日の発熱外来の帰りに、ポカリスウェット1.5ℓとリンゴジュース1ℓ、菓子パンを2,3個を買って自宅へ向かうとき、数メートル歩いただけで持っている荷物が重く、息が切れて何度も止まっては息を整えて歩いた。4階までの階段をどう昇ってきたかよくわからない。家についたとたん、玄関に座り込んだほどだ。火曜日の燃えるゴミの日もまだ地獄の1丁目だ。それから3日後の金曜日のごみは嘘のようにずっとラクになっていた。

 今はまだ食欲がない。仕方なく食べている。お腹がグルグルに鳴るほど空腹でも、食べたくない。原因の一つが味覚。甘味はわかる。塩気もまあまあ。しかし、だしなどの旨味がてんでダメ。そうめん食べても塩水につけて食べてるような感じ(笑)。ほうじ茶も緑茶もいまいち。

 食事の偏りが半端ない。ポカリスウェットの味はわかるので、ポカリと水、アイスクリームなど、のどごしのよい冷たいものばかり食べていたが、ちゃんとご飯を食べようと思ってもモソモソした感じや今までとはちがった味に感じられて、箸が進まない。わかめの味噌汁は味は大丈夫だったので、そればかり作っていた(笑)。

 この5日間、私は難病の処方薬を自己判断で飲まなかった。「ステロイドは一度飲んだら勝手にやめてはいけません。危険な離脱作用を引き起こす可能性があるからです。」と言われていることが何度も頭を反芻したが、それでも飲まないことにした。

 私は難病が判明したとき、地元の開業医が処方したステロイド40mgを、副作用がつらくて勝手にやめて大学病院へ移った。そのときに、大学病院の先生からよく離脱作用が出なかったものだといわれた。その後、処方薬のすべてを仕切り直し、半分の20mgからスタートし、徐々に減って今は5mgだ。副作用の高めだった血糖値も安定している。

 担当の先生が3人目と変わってから少し事態が変わった。2人目までは抗体の値をチェックしながら、毎回ステロイドを1mg単位で増減する処方だった。3人目の先生は、ステロイドの量は変えないと言い切った。免疫抑制剤を減らすことを中心に進めてきたが、うまくいかず、抗体は上がり再燃。他の免疫抑制剤を試すも効果なく、私は新たな副作用、関節痛に悩まされたのだ。右ひじの痛みがずっと続き、湿布薬を処方してもらったが、何の効果もない。結局、もとの免疫抑制剤に戻したが、ひじの痛みは残っていた。さらに、その後善玉コレステロールの上昇で、血管狭窄中程度の判断になり血管外科へ。原発の病因は皮膚なのに、私は一体どうしてしまったんだろうと思い悩んでいたさきの感染だった。

 発熱外来の先生にはお薬手帳を見せ、「これらの処方薬と一緒に服用しても大丈夫ですか?」と聞いた。市販薬の頭痛薬で意識を失ったばかりだったので、確認せずはいられない。「しかたないですよね」。これがひっかかった。しかたない。つまり一緒に服用しないほうが望ましいということだ。

 免疫を下げているから感染症にかかりやすかったのである。そして罹ったのである。せっかく治療する薬をもらったのに、免疫を下げ続けてどうする?と自問自答した。たとえ再燃で全身が水泡だらけになろうとも、今、治すのはコロナだと決めた。

 難病の処方薬を止めてまる8日目。発疹は出ていない。そして驚いたことに、右ひじの痛みが消えている。耳鳴りも体のあちこちの痛みも以前よりは気にならない。

 今日は冷蔵庫が空っぽなので、午前中の空いている時間を狙って買い物へ行った。重い荷物を持っても右ひじの痛みはない。余裕で階段も昇れた。

 今日、絶不調の日曜日から水曜日まで読まなかった朝刊をゆっくり読んだ。

 6月26日付朝日新聞朝刊の『声』で、ある投稿記事が目に留まった。『がん治療やめ、海外へ音楽旅行』の投稿者は92歳の男性である。

 5年前に血液がんを発症し、治療を続けてこられたきたが、免疫力低下でこの1年半余りは入退院を繰り返していた。そして医療費も年間1千万円にも達することを知り、長生きすることへの疑問が生じ、今年の1月初めに治療の中断を決意し医師に伝えたという。そのとき、余命3か月と言われたが、4月末に入ってからも本人は元気だった。医師から「5月中はしたいことをしたほうがよい」と助言を受けて、奥様(奥様もガン手術を2回受けている)と二人で海外へ音楽旅行に行こうと決断。5月9日に出発、14日間の日程で、8回のコンサートやオペラを堪能して帰国してきたという。

 残された日々が幾日なのかはわかりませんが、悔いはなく、楽しさの余韻の中、過ごしています。

 医学的な余命の計算はデータから導きだされた平均値だろう。本人すら図ることのできない余命がいつなのか、まさに神のみぞ知るである。

 市販薬の副作用で激しいめまいと耳鳴りの襲われ、かがみこんだところまでしか覚えていない。その数十分後、目が覚めたとき、孤独死するってこういうことかと思った。母は入院中、家では自分ひとり。ドサっと倒れたところで、階下や隣人の人など気がつくわけない。私が運よく目が覚めただけで、目覚めなければ去年なくなった従妹と同じである。もしかしたら6月24日は私の命日になっていたかもしれない。

 難病の処方薬をまじめに飲み続けてきたが、持病との向き合い方を考えなおしてもよいかもしれないと思っている。